たかのぶろぐ

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

草稿.22

 

どじょう鍋を食べに行きました。自らどじょう鍋を提案することは絶対になく、そもそもその存在すら知りませんでした。 が、友達がせっかく誘ってくれたので僕も少なからず興味があり行ってみることにしました。実際は僕がご飯でも行こうと提案し、行きたい所はある?と聞き、その答がどじょう鍋でした。自ら相手に結論を任せ責任逃れをし、向こうもそれなりに調べた上で答えてくれたようなので、断るわけにもいかず、つい、いいね!行こう!と言ってしまったという次第です。前日になってどじょう鍋が気になり調べてみると、臭い、不味いといったかなり不吉な関連ワードが見つかり、ますます食べたいと思わなくなりました。もちろん前評判と違って美味しかったという場合もありますが、どうしても僕は最悪のケースを想定してしまう性なので、肯定的な推察を前提として挑戦するということが出来ないのです。どじょう鍋はどのお店でもどじょうが10~20匹入っており、仮に生臭さでどうにも食べられないとなった時、自分の性格上当然残すわけにはいかず、その先には地獄が待っているということだけは容易に想像できました。厳密には生臭いどじょうを食べること自体が地獄なのではなく、むしろどんな不味い食べ物でも自分の体裁を守るためなら必ず食べ切れる自信があります。地獄なのは敷居の高い(本来の意味は違うらしい)格式のあるどじょう料理専門店で、どしょうを無理して食べているあの失態を晒すのが嫌なのです。身体的苦痛(不味い物を無理して食べるのような)は、自分にとってそれ程苦痛ではないのですが、精神的苦痛(どじょうが好きで食べに来ている客が大勢いる中苦手な物を無理して口に入れている場違いな自分を晒し周りからの目線が酷く辛いといった)は、どうも身体的にも精神的にもこたえるようです。そのため、どうにかどじょう鍋を食べずにやり過ごすことができないものかと僕は2つのパターンの言い訳を作り出すことに成功しました。

1つ目はどじょう鍋は生臭そうで食べたくないとストレートに伝えることでした。ですがこれを伝えるのは容易ではありません。何故なら僕が行く所を決めて欲しいと友達にお願いし提案をしてくれた上で、なおかつ僕がそれに乗り気であるかのような返事をしたためです。これは僕もどじょうを食べたいと言ったのも同然であり、やっぱり嫌だったとホラを吹くにはあまりにも失礼で滑稽すぎます。友人にも、なんだ僕が言ったことに表面上合わせてくれただけで本当は食べたくなかったのか、何か悪いことをしたな、と思わせてしまうかもしれませんし、そのことを想像するだけで冷や汗をかきます。その先の2人の関係にも大きな隔りができそうで怖いのです。また、食べる前から不味そうだから食べたくないというのは、意気地無し、臆病者と自ら公言しているようなものであり、友達からの評価を酷く気にする僕にはとてもできないことでした。 2つ目に思いついたのは、実は食べたことがありその時以未とても苦手になったという言い訳でした。しかし、これでは提案した時に何故最初から言わないんだ、と思われそうなので、 幼少期のことで忘れていたのだが、つい先日母親と電話をし、どじょう鍋の話をしたら、実は小さい頃に食べていてあなたはとても苦手そうだったわよと聞き、慌てて思い出した、ということにしました。

そうして当日は天丼といった何の変哲もない料理をどじょう料理店で食べることにしました。(ただ、僕にとっては天井も初体験のことなのでそれはそれで悪くなかったのですが)しかし、せっかくどじょうを食べる機会があるのだから、後生に語ることのできる経験談や自慢話の1つとしても1度は試してみたいとズルい欲望が湧いて来たので、友達が頼むどじょう鍋から1匹貰い、もちろん昔食べて不味かったというテイで足を運んでいるので、美味しいと言うわけにはいかず、やはり苦手だといったなんとも微妙な笑みを浮べてその場をやり過ごそうと目論んでいましたが、結局どじょうを貰うことはできませんでした。やはり苦手だから避けていたのに1匹だけ味見をするなんてことできず、頼もうとした瞬間に恥ずかしさが込み上げてきて、とうとう言えずに終わってしまいました。僕の神経を張り巡らせた1大イベントの休日が無事終わり、なんとも恥ずかしく情けない感情を抱いたと同時に、これから先の人生を様々な人間関係の中で生き抜いていくことは非常に困難なことであり、とても完遂できそうにないと改めて思いました。

 

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