たかのぶろぐ

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

草稿.83

 

記憶が消せない、消したいけど消したくないような、夢に出てくることがある、その夢は十中八九悪夢になる、その人の夢はこれからも悪夢であり続けると思う、その人を思い出すと心臓に針を刺されたような痛みが走る、体中が震える、Cの記憶は過去の苦い経験の中でも飛び抜けて厄介な存在になっている、闘病生活よりももっと刺激的でパンチの効いたカタストロフだ、それは僕の頭の中で今もなお生きている、蝶のように舞い時々蜂のように刺してくる、トラウマを考える

その子の名前をイニシャルで表記しているが、これはブログで公開する上での特定やプライバシーに配慮した結果ではなく、単純に名前を思い出したくないからだ、その綴りを見たくもないし書きたくもない、字面を見ることによって鮮明に想起されることを懸念している、第一特定なんかされるわけがなくこのアルファベットも本人とは全く関係ない、そもそも日本人でイニシャルをCと表記する名前は存在するのか、忘れようとすることで傷が癒えないのは忘れようとすることで思い出されるからというフレーズを思い出す、名前に執着して記憶を削除しようと試みてる時点でその記憶はより鮮明に刻印されてしまう、もうどうしようもない

SNSのブロックや削除は別れの常套手段だが僕は削除に踏み切れずにいる、ブロックとミュート機能を使って日常的に目に触れることは何とか避けられているがその一線を越えられない、それはCの状態を完全に確認できなくなった場合の自分の情緒が全く予想できないからだ、普段見ることはないし目に入れたくもないが現状いつでも見ることのできる状態になっている、これは何らかの安心感を自分に与えてるような気がする、しかしこれを消してしまったらどうなるか分からない、忘れようとすることで思い出されるから傷が癒えないというフレーズそのままに忘れることのできない記憶として心に刻まれるのではないか、肌の新陳代謝で時間と共に消えるヘナタトゥーやジャグアタトゥーではなく、もっと深い真皮層に掘り込まれるタトゥーのように

正直Cには死んでもらいたい!決して憎しみからくる死ね!ではないんだ!許して欲しい!

その存在が、少なくとも現世での存在が無くなればこの先何十年と悩む必要がなくなるんだ、自分とCの思い出はこれ以上増えることはない、それはCが生きている今も変わらない、でもこの世界のどこかでCが存在しているということが苦痛なんだ、この時もCは存在しCの人生は今もなお続いている、自分とCはこの先交わることがないのに同じ時間を過ごしていることが苦しい、言葉の表現力が乏しいから上手く書けない、Cは過去の人間ではない、自分の中ではCは過去の人間だが確実に今も存在している、自分の知らない所でCが生きているという事実が自分を苦しめる

本当に惨めな人間であると思う、女はサッパリ忘れ男は忘れられない、まさにその通りだと思う、Cは綺麗に忘れて新たな日々を生き生きと送っている、一方いつまでも忘られず過去に執着する情けない男がここにいる、この文章も気に食わない、綺麗に忘れてという言葉には一種の軽蔑が含まれている、こんなに感傷的で苦痛な日々を送っている自分に対し、さっさと別れと決別し何もなかったかのように楽しい日々を送ることのできる能天気さを見下している、いや見下してはいないし自分が間違っているのは認めている、弁解したい、見下してはいない、先の一文から分かるのはセンチメンタルに酔っている自分がいるということである、この軽蔑はCではなく自分に向けられているものだ、と思いたい、このマゾヒステックな人生観を早く捨てなければならない、マゾヒズムはセンチメンタルを肯定してしまう危険な思想体系だと思う

死んでほしいなんて思ってない、でも幸せになってほしいとも思っていないし、かと言って不幸も願っていない、自分と関わりのないCの人生には興味がない、ただ死んでくれれば楽になる

 

ひとりぼっちおそれずに 生きようと夢みてた さみしさ押し込めて 強い自分を守っていこ

どんな挫けそうな時だって 決して涙は見せないで
心なしか歩調が速くなっていく 思い出消すため

 

 

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