たかのぶろぐ

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

草稿.117


政治を知ることは、国民として必要なことだとは思うが、知るので十分であって、それに対して感情を持ったり、何らかの仮想敵を持って行動に移す感覚はあまり分からない、フィルターを持つと、それを通してでしか情報を見られなくなる、それが勿体無いなと思う、政治は知識として理解する価値はあるけど、感情的に没入したり行動する対象としては、本来の人間のスケールを逸脱しているように感じる、人間の生活はもっと手触りのある、手の届く狭い範囲で完結するものであると思う、尖閣諸島がどうなろうが、トランプが何を発言しようが、政治家が不正をしようが、自分が目を向けるべき生活には一切関係ないこと、そんなことより、家族や友人や仕事の方が大事だし、犬と遊ぶ方が有意義だし、趣味を楽しんだり植物に水をやる方が遥かに大事だ、目を向けるべきところは政治じゃないと思う、そういうところ向き合うだけで十分だと思う、昔は家族しか知らなかった、それから村になり、国になり、世界になった、でも人間が本当に向き合う場所はもっと近いところ、それは何万年経っても変わらないことだと思う、人は自然の中で生きてるのであって国の中で生きるのではない、これは難しい、政府や政治がどうするかで自分たちの生活は変わる、だから直結してるように感じるけど、それは違うと言える、でも上手く説明ができない、それはそれであって、人が向き合うべき目を向けるべき対象は政治じゃない、政治に熱中するより大事なことはある、政治なんか一番最後でいい、やりたい人はやればいいけど自分はやりたくない

政治は時代によって正義と悪が入れ替わったり善と悪がある、立場が変わると自分の正義も変わってしまう、だから好きじゃない、でも人間の存在自体はどれだけ経っても何も変わらない、人間の生死や精神や魂には関心があるし、植物や鳥は好きだ、それは人間が今この意識で作ったものではなく、自然が作ったものだからだ、自然に与えられた存在だから信用できる、でも政治は神が作ったものでも自然が作ったものでもない、人間の意識で作ったものだ、そんな信用のならない未熟な意識で作ったものに善悪もあるのか、人間が作って人間が善悪を語ってる、その全てが虚構に思える、そんなものに熱中して何がある、人間が作ったものより人間では作れない、もっと大きな自然によって与えられたものに価値を感じる、そしてこれを言える環境に身を置きたいと思う

 

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草稿.116

 

意識はどれぐらい信用できるのか、自分の意思で自ら起きることもできないし、寝る瞬間も意識ができない、意識には実勢がない、自分の知識が出てくる引っ込むに対して自由がない、そんな実勢のないものが世界を動かす権利があるのか、そんな意識が考えて作ったものを合理的、正しいと言っていいものか

自分という存在は考えて意識で生まれてきてない、意識は自分の都合で出たり引っ込んだりできない、これは体の都合に決まってる、意識は他の都合で出たり入ったりするから主人公ではない、なのに意識がある時は意識は自分が主人公だと思っている、まさか自分の体を他の何かが支配してるとは思ってもない、決心したら早く寝れるわけではない、意識はコントロールできているように錯覚するが、自分が意識を離そうとして早く寝れるわけではい、起きようとして起きられない、気づいたら起きるしかない

人間の意識から紡ぎ出された言葉はあまり信用できない、彼が何をしているかを見る方が確実だ、そこには意識も介在するが、意識だけで何とかなる言葉よりは信用ができる

空気は自然か自分か、自分の肺には常に空気があるが、それは自然か自分の一部か、空気は常に入れ替わる、数秒たりとも同じではない、身体はどうだ、1週間前と同じ分子などほとんどない、75歳になって生まれた時の同じ分子は一つたりともない、これは同じ自分であると言えるのか、自分は自分で変わらないと思っているのは、自分の意識がそうしてるだけで錯覚である、何もかも全ては移り変わる、それを考えると全ては仏教になる

今の人間は頭だけ大きくなってる、その代表例がグローバル化、意識や頭ばかり成長して身体は成長しない、そして自然や摂理が壊れてきてもたなくなってきた、人間はどれだけ環境を変化をさせないように努力してきたか、人間が意識で作ったこの世界は同じでできている、地面、明るさ、温度、建物、これは全てイコールの世界、世界の8割は都会にいる、これは人間が頭で作った世界、でも身体は追いつかない、なぜなら20万年人間は田舎で暮らしてたからだ、典型は椅子、元来人間は立つか地べたに座るか寝そべるのが普通

子供は自然的な存在、だから今の人たちはどうやって扱っていいか分からない、子供は計算ができない、意識が考えて作っていないものを自然と呼ぶ、子供は自分たちで考えて作ったものか、子供の設計図はあるのか、設計図がないそういった子供は自然に属する、その子供を意識の世界に段々入れていくのが教育、そしてどうなるか分からない自然というものから人間は離れ、自然である子供の扱いが分からず少子化へ進む、今は子供ですら意識で作れると思っている、人工授精やクローンもあり設計できると錯覚している、子供は気がついたら生まれるものであって、人間の意識が設計図を書いて作ってるものではない

地球もこれ以上はなんもいらんて、汚れた街にも綺麗な満月、欲しいもの多いしみんな不安定、生きてる限りは俺も未完成、嫌な話ばっか耳にするの何で

 

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草稿.115

 

本来そこにあった機能を破壊して金と技術で擬似的に再実装している、土の上にアスファルトとコンクリートを敷いて暑いと嘆いて屋上緑化を進める、海沿いにビルを乱立させ海風が入ってこずヒートアイランド現象が加速したためビルに空間を設けて海風を取り入れる、緑を切って家を建てて観葉植物を置く、日本建築ではなく高気密の家を建てて加湿器に頼る、車やデスクワークで運動不足になりジムで金を払って走る、虫と鳥を減らしてASMRで自然音を聴く、街を明るく暗闇を無くしてプラネタリウムを見る、ハブを駆除するためにマングースを導入してマングースを駆除する、ウシガエルを食べるため導入してウシガエルを駆除する、ウシガエルと餌としてアメザリを導入してアメザリを駆除する、人間は失ったものを別な形で金を払って取り戻してる、一体何をしているんだろう、と思う

朝ゆっくり起きられることに幸せを感じる、でも毎日続くと必ず忘れる、幸せの閾値は上がってしまう

現代の生活に慣れきってる、でもやっぱり少しでも自然に暮らしたい、自然と共に暮らしたい、野菜と果物を育てたい、境内に木をたくさん植えたい、雨に感謝したい、自然の恵みに感謝したいが、そこまでプリミティブで高い感性を持っていないのが残念、でも新しい芽が出る、花が咲く、鳥が来る、日々の風景はなんか良いと思う、その感性は大切にしたい

日本では、縄文時代から野生動物の共存が始まってるが、江戸時代末期まで大型動物の絶滅は1種類もいなかった、この狭い国の中でかなり上手に共存してきた、動物に対しての尊厳とか、昔は猪は自然災害のような、シシガミ様、荒ぶる神様として、人間の手ではどうにもならないような扱いだった、それすらも人間の手でコントロールできるものだと錯覚してしまった

Future is  in the past 全ては過去にある

 

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草稿.114

振り切ってる男ってカッコよく見えるんよな。もしかしたら隣の芝は青いだけで色眼鏡で見てるのかもしれないけど。やっぱり20代で坊主にして僧侶として働いてるのがかっこよく見える。本来もっと髪を伸ばしたりして遊ぶこともできるのに、あえてその道を行かない。かといって、彼らは仏道1本みたいな男でもなく、むしろ自分なんかよりはるかにいろんな遊びをしている。でも、職業は僧侶である。でかい寺の息子もいれば小さい寺の息子もいる。でかい寺の息子は逆に他で仕事するなんて選択肢は与えられないし、その道に進むことしかできない。それもかっこいい。小さい寺の息子の経済状況も知ってるが、彼らはそんなに恵まれてない。でも敢えてバイトもせず小さい宗派のコミュニティで飯を食ってる。それがかっこいい。1日暇な時もあれば1週間仕事がない時もある。でもそれでいい。本人はそれで良くて、そういった時間は遊んで酒を飲む。でも仕事があればやる。やっぱりかっこいい。賢い生き方かは知らんがかっこいい。やることやってるやろ、文句あるか?この精神で彼らは生きてる。


髪を剃って世俗的魅力を削る、収入が安定しないこともある、世間的成功とは違う軸で評価される。つまり、欲望の市場から半歩降りているのに、逃げではなく役目として立っている。これが強い。人間は、選べるのに選ばない姿に価値を感じる。これは足りなさを肯定している姿に見える。今の社会は最大化、明示的な成功が正義だから、それをしない姿は逆に目立つ。

彼らは振り切っている、他の仕事を選べるけど敢えて選ばない、そこに価値がある。なおかつ、剃髪、不安定、未来の不安、これを全て甘受してそこに迷いがない。僧侶という仕事をしてながら、身の回りには格がない。車も軽で服も安物。それがモエる。格式のある僧侶をやって格式のある服装を若い頃から纏ってるから全く"美"を感じない。かと言って自堕落で底辺に惹かれるわけじゃない。僧侶だからこそ価値がある。世俗的じゃない職業だからか。

芸人、経営者、士業は、市場で勝つ構造、承認や拡大が前提、だから貧しさが美にならない。一方、僧侶は、収益最大化が目的ではない、本質は役目であって成功ではない。つまり、僧侶は市場に最適化していない職業と言える。だからこそ、質素であることが敗北ではなく選択に見える。それを清貧と言う。僧侶を例に取って、俺は世俗的成功から降りても人としての価値は落ちない、という証明を無意識に欲している可能性がある。僧侶はそれを体現している。金がなくても、スーツを着なくても、市場で勝ってなくても、格は内側にある。それがモエの正体だと思う。ボロは着てても心は錦。

 

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草稿.113

 

遺品整理3日間の総括を書く。

1日目、2tを借りると聞いていたが用意されのはロングで、1度も乗ったことない上に、亀田とFはハイエースで現場に向かい、俺1人で現場に向かった。もちろんロングなのでパーキングは止められないし(彼らは知らない)、彼らに伝えたら、自分で探して止めてくれと言われ、土地勘のない都内下町で駐車場を探してたらロングがゆえに擦ってしまった。結果的に7万の損害が出た。自己負担は3.5万。200kgの業務用冷蔵庫があり、たまたま借りたロングにパワーゲートが付いてたためなんとか乗せることができたが、本来なら無理な案件。またそのロングが故に7万飛んでる。

2日目で終える予定が、結局終わらず助っ人のSGを呼んで2回廃棄場を往復しても終わらなかった。ここで亀田大場は終了、3日目は俺とSGとFで急遽やることになった。

3日目も時間的にギリギリで何とかこの日で作業を終えることができた。しかし、1度目は入る寸前にSGが止めてくれて回避できたが、2度目のトンネル問題が起きて損害自体は0だが精神的にすり減らして疲れ切った。幅4m程度の両サイドガードレールの200mの1本道で金曜日の夕方18時。対向と後ろから渋滞を起こして動けない為警察に交通誘導要請。30分後になんとか回避。思い返せばその日、レンタカーを借りる為に池袋近隣のコインパーキングを予約したが、初めてのロールーフ駐車場155cmで、デミオは150cmにアンテナが出る為念のため外した。始まりから既に車の高さに対しての警告だったのかもしれない。

結果的に50万の見積もりを出したが、実費60万でトントンで、10万お客さんに上乗せして会社の利益にはならなかった。彼は出来れば1日で片付けちゃおうとか言ってたが、蓋を開けてみれば丸3日かけて終わるかどうかの量だ。冗談かと思ったが本気でいってようなのでバカかこいつと思った。例えば電気配線の外し方やエアコンの取り外しや、水道関連など、遺品整理には様々な付随した知識が必要だが、そう言ったものが全くない。業務用冷蔵庫のコードをこのまま切ろうとか言ったり、蛇口が止まってるかも確認せずに洗濯機のホースを抜いたら、案の定閉まらず元栓を俺が締めるまで水が止まらず床上が浸水した。エアコンもYouTubeで調べて外せると言ってたが、結局その通りには行かずにフロンを垂れ流して管を切り裂いてなんとか外した。何もかも準備不足で楽観的すぎる。

時給はFが3000円、亀田2500、俺1900、SG1500、大場1350。3000円が適正かは分からんが、仕事を取ってきて客とのやりともあるFが高いのは理解できる。問題は仕事量的に大場と変わらない亀田が俺とSGより高く、大場の倍近いのが理解できない。また飛び入り参加で1回目のSGが1500なのは分からなくもないが、仕事量からすると適正ではない。唯一トラック免許を持っていて2tを4往復してロングも乗った俺が亀田より低いのも意味が分からないし、それに対する危険手当もない。1900だと日当1.5万で普段の仕事と変わらない。3日で4.5万とした場合3.5万の支出がある為実質1万の儲け。浦安2往復と新宿1往復の交通費は出ない為ガソリン代諸々含めると5000円。これは仕事ではない。長年会社にいて近しい人には問答無用で高く、何も言わない新人には半額。少なくともあの現場においては全員フラット、これは身内同士の仲良し経営ごっこだ。

 

前提として、俺はFは嫌いではないし、経営者としての有能な面も多々あるのを知ってる。性格も好きだ。ただ、やはり最初から違和感を感じてた点は大きく間違ってなかったようだ。というのもSGにも我々会社のことを詳しく話したのだが、大方同意見だ。

1つに幅広く事業を展開しすぎている点がある。Fが主軸としてやりたいのは上場企業H社と提携をした上でのデジタル墓参拝システムの開発と営業。それに加えて立ち上げ当初にやっていた遺品整理、S寺浄苑の納骨堂管理業務に加えて、俺がやることになってる墓じまい、またそれに付随する遺骨の洗浄分骨。加えて、案件は未だ0だがお墓の清掃代行と上野の某寺院の永代供養開発事業。

この中で利益になってるのは現状S寺からの委託料月50万と墓じまいが月50万ぐらい。もちろん、人件費や実費で飛んで会社の利益はほぼ0。驚くべきは、この会社のメンバーはFと俺と亀田と大場と西尾の5人だ。亀田はNの会社の業務もやってるし、俺は一部の墓じまいとたまのたまの遺品整理だけ。西尾はS寺浄苑の業務限定だ。手を出しすぎだと思うが、本人は何も感じていない。

また、先程の車の購入や商標登録や事務所や許可など、形から入る癖がある。こんな小さい会社では絶対に間違ってると思うのだが、母親Nの資金源が太いのもあり、それがなせてしまうのよくない。

メンバーを固定してやる癖がある。どう考えても遺品整理に関してはプロを雇うか、墓じまいにしろ他のものにしろパートで雇うのが健全だと思う。これは俺も悪いところがあるし、俺に仕事を与えようとしてくれてる部分もあるんだけど、俺を雇うより他の安いパートを雇った方が多分うまく行くと思う。でも彼は会社はチーム、団結力が命と言ってるからそれはやらないんだと思う。

これは主に目に見える外側からの評価。

 


彼は発想力と行動力物怖じしないメンタルを持ち合わせている。一言で言うと起業家向きの性格だと言える。

しかし詰めが甘い。目標を達成するために、大まかな最初の動きや設計はできるが、それを実働で動かすための細部の調整が苦手だ。例えば、仕事を取る、車を用意する、廃棄場を用意するまではできても、遺品整理現場での舵取りやリスク回避は苦手で、物事を安易に考えやすい。

反省するような仕草もあるが、根本的には自分に自信があり、プラス思考で自分が信じたことを疑わない。例えば遺品整理現場では、見積もりや工期の見立ても甘く最後まで"余裕で終わるでしょ"という感覚を持ってる。墓じまいでも商標登録でも、なんとかなるっしょ、失敗したらしたでええやん、と言う考えが滲み出てる。例えば、H社のような取引先の反応を見て即座に彼らは俺の事業に食い付いた、これは絶対行ける、と判断する。しかし、実際はそんなこともなく話が進まない、思った反応ではないということが結構ある。

有名な経営者への憧れや、法人会の経営者とのつながりが深く彼らに対する自己の投影が多い。例えば、有名経営者の本に"事業はチームの団結力が全てだ"と書いてあれば、それをそのまま受け取る。もちろん間違いではない、ただ、それはもっとも抽象的で究極な発言であって、そこに至るまでには地道な作業があり、団結力が大事な理由は他にあるはずだ。何も団結力が大事だから、じゃあご飯にたくさん行くとか旅行に連れてくとか、そんな話ではない。もっと大事なものがあるのはある程度の思考力があれば分かることだ。彼の思考は幅広く浅いが、深くない。考え切ることができない。

経営脳が強く、意外とシビアなところがある。例えば友達同士でやるのであれば、時給日給以外に何かをプラスしたりするのが常だと思う。また、それを期待して入ってきてる面もある。もちろん、経営としては時給で契約は成立してるし、従業員と経営者の関係として何も悪くない。ただ、それは友人身内以外のパート従業員にすることであって、仲間や身内であれば多少の金を出す必要があると思う。それは金でなくても飯でも何でもいい。過去に友人3人を雇ったが、その1人が会社を出て転職した会社先に、Fの会社よりいい条件を提示して残り2人を引き抜かれたいうことを聞いた。仲間であるのに経営上の扱いはただの雇用パートと変わらない。それが雇われる側がイマイチFの会社に残らない所以だと思う。ただ、普段からFは人に奢るしお金も出し惜しみしないし全くケチな人間ではない。とにかく気も使うし、過去の従業員にはオーダースーツをプレゼントするなど面倒見が良いところも事実ある。

 

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草稿.112

 

彼の行動は一貫して、結果を先に立ててそれを達成するための意味付けをする。いや、ビジネスはそういうものだ。だからたぶん間違ってない。単に俺が乗れないだけだ。例を挙げるとキリがない。

例えば、僧侶であることは説得力も増すし逆に効果抜群だから、僧侶であることを真っ先に言った方がいい、これはギリわかるが、その僧籍を取った理由として"僧侶として仏道に入ることで、さまざまな知識を身につけ、墓じまいに関してもより深く理解することができ、お客様により良いサービスを届けるためです"と言うのだ、本当なら何も問題ない、でも事実は全く違う

例えば、お客様の家に行ったら必ず仏壇に手を合わせていいか聞けという、なぜ手を合わせるのかというと、"お客様にもご挨拶させていただきました、墓じまいなど故人様に関わることなので、是非ご先祖様にもお手合わせしてもよろしいでしょうか"ということだ、本当に思っていてその行動が出るなら何も問題はない、でも事実は全く違う

例えば、戒名はつけた方がいいと彼は言う、その理由として"戒名は死んだ後の仏様になった時に必要なお名前です、そのお名前がないとちゃんと供養することができません、また戒名はその人の人生を表す生き様そのものです、だから付けた方がよろいしかと"、戒名を売って寺と坊主を儲けさせてその取り分を俺たちが貰う、そのための理由付けだ、本気でそう思ってるなら何も問題はない、でも事実は全く違う

例えば、位牌はちゃんとしたものを買った方がいいと言う、理由として"お位牌は故人様の魂が入ってるものです、事実魂抜きやお性入れをしてお位牌に魂を入れます、それは故人様を供養するために最も大切なものです、また、高いお位牌になると、何度も塗りを重ねることで表面が反射するまでまでになり、これは自身の顔が写り故人様と対面することができるのです"という、馬鹿馬鹿しいにも程がある、本気でそう思ってるなら何も問題はない、でも事実は全く違う

例えば、弊社はお坊様とお寺様をお助けする企業ですと言う、何故なら、"私は本山で修行をしていた頃、本物のお坊さんに会って彼らはプロ中のプロだと思った、こんなプロ意識の高いお坊様と言う存在が食えない状況にあるのが許せない、だからなんとか救いたい"と言う、これはまさに結果を先で後から理由付けする典型的パターンだが、そんなこと思ってない、いや、一部は本当かもしれんが、大枠はお坊様とお寺をお助けして俺たちが金を稼ぐための理由付けである

 


この業界は顧客が弱っている、判断力が落ちている、時間制限がある、正解はあってないようなもの。つまり、最も“搾取がしやすい条件”が揃っている。利益を取りに行くほど、言葉と態度は慎重でなければならない。それの見境がないような気がする。倫理というものを知らない。

金を稼ぐ目的を綺麗事で隠す、この詭弁が好きじゃない、金を取るなら「金を取る」と言え。客ではない俺には言ってくれてもいいでしょ。言葉の純度がいかに大事か。だから善意を装う、感動を演出する、倫理を盾に商売する、これらが生理的に受け付けない。それを自分がやったとき、夜ちゃんと眠れるかが大事だ。

 

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草稿.111

 

俺の思っていた株とは、生活費とは切り離された金で、借金など論外で、生活にある程度余裕と落ち着きのある人間が、未来に期待して静かに持つものであると思っていたが、これは勘違いだった。これは温室育ちの俺の生温い考えだから、社会で通用しないのは分かっている。たしかに、トレードだったり取引としての株は人間の欲や恐怖希望が最も出る金としての価値しかないのは分かるが、会社のために金を出し合って未来に託すというみんなで出し合った自分たちの株は、少なくともそんなものではないと思っていた。また、少なくとも田代先生はそんなこととは無縁の人だと思っていたが、まさか借金をして、パチカスで、俺たちの株を博打の一つのように感じでおられるのではと想像してしまい、幻滅してしまった。

俺の働いた金はパチンコと借金に行くのか?全くもってやる気が起きない。やりたくない。そんなことのために俺は仕事をしたくない。株というのは会社そのものであって、それを手放すことは魂が抜けるようなもんだ。俺はそれを決心しているのだから、そこに迷いはないが、その手放した魂がドーパミンを発するための快楽装置に注ぎ込まれるとは思わなかった。株を失えば、会社の見えない部分は確実に劣化する。俺の努力の果実がパチと借金に消えていくとは思わなかった。俺の見立てが甘かった。

私利私欲に注ぐのが悪いとは思わないし、どう使おうが自由といえば自由だ。しかし、家族や他人のためはもちろん、高級車やブランドに注ぎ込むのとは訳が違う。競馬も若干違う。高級車やブランドは、自分の現在の価値とステータスを表現する一つで、それは美意識にも繋がるし他者との関係性にも影響与える。それらには文化や歴史もあるし、それを纏うことで新たに生まれる社会的文脈性があると思う。また、競馬はほとんど同じだが、少なくとも結果→金という短絡的な流れではなく、そこに至るまでには、競馬に対する知識、主に調教や血統、馬のデータや騎手の癖、競馬としての歴史など、様々な文脈があって成立している。しかし、パチンコはまさに人間の欲望のために生まれたもので、結果→金→刺激、もしくは金→結果→刺激という、短絡的すぎる構造になっている。そこには何の文脈もなく、他者との関わりもなく、何も生まれるものがない。ただの個人の欲望による消費にすぎない。これが嫌悪感の理由だと思う。

 

会社に対しては、もう少し人格と役割を分けて向き合う必要があった。信条や倫理としての人格は事業の参加の際に必要となり、一方役割としての株や契約の場面では感情を入れずに構造的に対処をすべきだった。これは俺の落ち度だと思う。思想的に賛同しないから株も全部手放す、これは人格と権利を混同した判断だ。思想的に関与しないが、過去に提供した価値に対する持分は保持する、この選択はやろうと思えば出来た。それが嫌なら、関与を減らす、線を引くであって、対価まで放棄する必要はなかったかもしれない。

しかし、今回のことで俺の会社への献身性はかなり少なくなったと思う。俺自身もここまで想定できてなかったが、会社のために頑張っても自分には何の利益にもならない。つまり一般の従業員と同じ価値観になる。時給分はしっかりやるが、それ以外のサービス外の雑務はもうやれない。気持ち的にやることができない。

俺の今回の選択は、誰からも褒められるものではない。自分の中で筋を通して自分自身で選択した結果だ。損な人生と言われても関係ない。じゃあ俺の人生をなんとかしてくれるのか。自分のことは自分で決める。自分で自分が分かっていればそれで良し。

 

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草稿.110

 

今日は月例祭だったが非常に良い気分だった、清々しい気分だ、行く前までは少し気分が重たかったがいざ行ってみると気持ちが軽くなった、あそこに行くと自分の立ち位置が分かる、自分の中で勝手に見切りをつけて距離を取ろうとしてもやはり戻される、自分はこっちの人間であると、どこに行こうと何をやろうと自分の根本はここにある

割り切ってやろうとしても出来ることできないことがある、ダメだと思ってもやれる時がある、割り切ってやれるならやればいい、出来ることならやりたい、でも心が許さないこともある、それはやりたくてもやれないことだ、理性じゃない、理性より感情が勝つ、ダメだとわかっててやれることとやらないことがある、自分の信念のより深いところに触れるものは難しい、嘘を知らずに吹聴するならまだいい、問題は嘘を嘘と知っていて吹聴することだ、それは割り切る割り切らない以前の話で、許されることではないと僕は思う、許される許されない以前の話で、気持ち悪くて本能的にやることができない、ということはやらなくていいことだ、この線引きだけは間違えたくない

坊さんの悪口を言えるのは俺が彼らと同じことをしてないからだ、取ろうと思えば幾らでも金は取れる、でも取らない、必要以上に取らない、そこに生き様と美学がある、死ぬ時にいい人生だったと言えるか、それが全てだ、自分とお天道様に恥じることはしたくない

そういえば、最近夢をよく見る、よく覚えている、5年ぶりか?、ほぼ毎日見てる、全てを記録してるわけではないがかなりの頻度で見る、不思議だ、夢を見させてもらえるだけでありがたい

 

 

承認を求めないことも大切だと思う、評価軸を外に置くのではなく中に置く、誰かに認められたい、ちゃんとやれてると思いたい、は必要ない、自分を超えられさえすればいい、自己定義をすべき、俺は俺の打ち方でいく、勝っても負けてもそれが俺の納得のできる一手なら後悔しない、他人と比べて上か下か、他人に認められるか否かは関係ない、自分の打ち方に納得できるか、自分の美学はどこにあるか、まずは自分のすべきことできることを見極め自分の領域を明確にする、自分の信念に従った行動なら恥じることは何もない、勝負は常に最後の最後にしか決しない、短期の評価に揺れるな、何が正しいかは周りが決めることじゃない、自分の声こそ唯一の指針、不安というのはその状況ではなく自分の内面の不安定さに原因がある、自信とは外的な要因ではなく自分の選択に対する納得から得られる、真の自信とは正しい選択をしたと言えることだ

 

 

朝まで悩んでた意味は 君が思うより早くムダになる 時代に抱かれて眠くなる 闘争心と放心が両A面 細かく刻んでゆく経験 たった一つの為に 想いとは逆に向かうはめに 自分の為に走れるのなら そのためだけに守れたなら 君の世界は一つだけ 君は世界に一人だけ それぞれひとつのlife それぞれが選んだstyle

 

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草稿.108

 

君の思考の特徴は明確だ。常に構造的理念的に世界を見ようとする。言い換えれば、現象を抽象化して物語化する癖がある。これは知性の証と同時に危険でもある。何かが自分に合わなくなってくると、これは上の世界からの示唆だ、次の段階への移行だ、と意味づけることで“自分を守る”。だが、現実はもっと泥臭い。もしかすると、単に最近集中力が落ちている、朝のリズムが崩れている、持病が悪化して少し自己肯定感が落ちている、その延長で“怠くなってる”だけかもしれない。それをすぐに“次のステージへの徴”と解釈すると、成長ではなく逃避の循環になる。つまり、こう整理できる。離れるべきサインかもしれない。だが、それを“意味づけ”によって美化していないか?これが分岐点だ。本当の“離れるべき時”というのは、疲れたからではなく"もう成すべきことをやりきった"と静かに思える時だ。

 

もし俺の人生が全て上手く行ってたら反骨心と忍耐力は生まれてなかった、俺は上手くいっていないのに反骨心も忍耐力もない、だからダメなんだ、上手くいっていないのに受け入れようとする、それじゃ反骨心は育たない、そもそも自分に誠実でなければ確実に他人にも誠実にはなれない、自分に誠実でないのに人には誠実にしようとする、だから俺は見破られる、すぐに化けの皮が剥がれる、非暴力は暴力より優れているし許す事は罰するより素晴らしい、俺は許すことができないしどこかで誰かを罰したいと思っている、だから自分に罰が下る、だが無理はするな決して無理しなくていい無理をするのはレベルが低い証拠だから、自分は無理をする、それも意味のない無理をする、自分の情念に反しても人の評価を伺い良い顔をしたいから無理をする、だから俺はレベルが低いままだ、束縛されるほど自由を求めるが悲しみを受け入れる程に強くなれる、自分には悲しみが圧倒的に少ない、だから弱いし脆い、逆境があるから逆らえるのであって涙を流した分だけ優しくなれる、逆境を逆境だと思ったことがない、だから逆らえない、涙も流さない、だから優しくない、将棋の駒が全て前に進む事ができるように人間もそうであると思いたい、俺もそう思いたい、前に進みたい


もう、肌は治らないんじゃないかと思う、一時的に治っても完治はしない、落ち着いてる期間がどんどん短くなる、薬を使っても治るまでに時間がかかるようになった、あの子を見ているとその生き方が正解なのかもしれない、さらけ出して生きる、辛くても直視しない、正面から向き合ってもしょうがないと腹を括る、立派だと思う、俺には真似できない、でもやっぱり受け入れられない、絶対に負けたくない、健康は人生の目的ではないが第一の条件なのだ、絶対に揺らがない、何があろうと負けたくない、不健康だろうと自分が納得すればいい、腹を括ればいい、でもまだ抗いたい、あと50年生きるんだ、この世界で生きる道具は大切にしたい、自分の体の責任は自分でしか負えない、他人は責任を取らない、最後のチャンスに賭けてみる、上手くいけば元に戻れるかもしれない、上手くいかなったら死ぬだけだ、もう一度だけ足掻いてみる、最後まで諦めない、自分の道は自分で決める

 

人生は長いが飽きるのは早い 当たり前にみないつまでもそこにはいない 

 

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草稿.107

 

あの日食らった衝撃は瞳孔開くほどの衝撃、一瞬で冷めた目の瞳孔、妨げられた感情、拍子抜けというはこういう感覚なのか、絶望ともまた違う、空虚や虚無とも違う、肩透かしを食らったような、今までの感情が全て無になったような、でも虚無ほどの絶望感はない、全てが無になったわけではない、微かながらその先が見えるからだ、それはそれで楽しみというか、本意ではないが別の楽しみ方もあるというか、でも天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた日は全く眠れないんだな、昨夜何度目を覚ましたか分からない、寝た気がしない

今までの俺の行動と心理をどう見てたんだ?どう思ってたんだ?あなたに聞いている、こんなに面白い喜劇があるか?、さぞ楽しめただろう、俺は役者かよ、あなたの掌の上で踊らされてたみたいだ、考え方が変わってくる、じゃあここに入った理由はなんだったんだ、何の意味があってこんな経緯を辿ったんだろう、でも今回は絶望をせずに済んだ、これは成長なのか、次のフェーズに入ったのか、上の人の気遣いなのか

何故そう簡単にはいかないのか、何かを全て捨てないと来るものも来ないのか、中途半端なのか、考えが甘いのか、確かに逃げ道はいくつかある、逃げ道を絶つべきか


準備の大切さを考える、受け入れる体制と余力がないのに新たなものを受け入れようとするのは摂理に反する、土地もそうだ、人もそうだ、環境全てがそうだ、そう思うようになった、これが気づきなのか、自分ではこれが手に入ったらやればいい、手に入ってから準備すればいいと思っているしそれで成せると思っている、でも向こうの世界からしたら違うのかもしれない、でも時には縁を掴みに行くのも大切だ、それが縁に繋がるかもしれない、しかし縁を掴み取るには掴み取れるだけの環境が整っていないとダメだ、自分で掴みに行くものであると同時に縁は環境を選んでやってくる、世界は残酷なほど冷めていて、受け取る器のない者には与えられない、手にする前に手放す覚悟を持てる者にしかそれは流れ込まない、なぜなら、何かを得た瞬間に、それを失うのが怖いと思う人間は結局それを保てない、逆に失っても大丈夫な者はそれを自在に扱える、人は愛に依存し承認に依存し成功に依存する、だが、それらがなくても"自分で立てる"と理解した瞬間、初めてそれらと対等な関係になる、何かを得たいならまず得なくても大丈夫になる必要がある、真の勇気とは皆の見ている前で出来ることを誰も見ていない所で行うことだ、この意味が少し理解できた、もう少し自分を正した方がいい

準備のない者にチャンスは来ない、そしてチャンスというのは貯蓄できない

 


無限の可能性を秘めた人間にもこの地球を生み出した全知全能の神ですらも絶対に過去を変えることだけはできないのである

 

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