俺の思っていた株とは、生活費とは切り離された金で、借金など論外で、生活にある程度余裕と落ち着きのある人間が、未来に期待して静かに持つものであると思っていたが、これは勘違いだった。これは温室育ちの俺の生温い考えだから、社会で通用しないのは分かっている。たしかに、トレードだったり取引としての株は人間の欲や恐怖希望が最も出る金としての価値しかないのは分かるが、会社のために金を出し合って未来に託すというみんなで出し合った自分たちの株は、少なくともそんなものではないと思っていた。また、少なくとも田代先生はそんなこととは無縁の人だと思っていたが、まさか借金をして、パチカスで、俺たちの株を博打の一つのように感じでおられるのではと想像してしまい、幻滅してしまった。
俺の働いた金はパチンコと借金に行くのか?全くもってやる気が起きない。やりたくない。そんなことのために俺は仕事をしたくない。株というのは会社そのものであって、それを手放すことは魂が抜けるようなもんだ。俺はそれを決心しているのだから、そこに迷いはないが、その手放した魂がドーパミンを発するための快楽装置に注ぎ込まれるとは思わなかった。株を失えば、会社の見えない部分は確実に劣化する。俺の努力の果実がパチと借金に消えていくとは思わなかった。俺の見立てが甘かった。
私利私欲に注ぐのが悪いとは思わないし、どう使おうが自由といえば自由だ。しかし、家族や他人のためはもちろん、高級車やブランドに注ぎ込むのとは訳が違う。競馬も若干違う。高級車やブランドは、自分の現在の価値とステータスを表現する一つで、それは美意識にも繋がるし他者との関係性にも影響与える。それらには文化や歴史もあるし、それを纏うことで新たに生まれる社会的文脈性があると思う。また、競馬はほとんど同じだが、少なくとも結果→金という短絡的な流れではなく、そこに至るまでには、競馬に対する知識、主に調教や血統、馬のデータや騎手の癖、競馬としての歴史など、様々な文脈があって成立している。しかし、パチンコはまさに人間の欲望のために生まれたもので、結果→金→刺激、もしくは金→結果→刺激という、短絡的すぎる構造になっている。そこには何の文脈もなく、他者との関わりもなく、何も生まれるものがない。ただの個人の欲望による消費にすぎない。これが嫌悪感の理由だと思う。
会社に対しては、もう少し人格と役割を分けて向き合う必要があった。信条や倫理としての人格は事業の参加の際に必要となり、一方役割としての株や契約の場面では感情を入れずに構造的に対処をすべきだった。これは俺の落ち度だと思う。思想的に賛同しないから株も全部手放す、これは人格と権利を混同した判断だ。思想的に関与しないが、過去に提供した価値に対する持分は保持する、この選択はやろうと思えば出来た。それが嫌なら、関与を減らす、線を引くであって、対価まで放棄する必要はなかったかもしれない。
しかし、今回のことで俺の会社への献身性はかなり少なくなったと思う。俺自身もここまで想定できてなかったが、会社のために頑張っても自分には何の利益にもならない。つまり一般の従業員と同じ価値観になる。時給分はしっかりやるが、それ以外のサービス外の雑務はもうやれない。気持ち的にやることができない。
俺の今回の選択は、誰からも褒められるものではない。自分の中で筋を通して自分自身で選択した結果だ。損な人生と言われても関係ない。じゃあ俺の人生をなんとかしてくれるのか。自分のことは自分で決める。自分で自分が分かっていればそれで良し。
