たかのぶろぐ

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

草稿.13


昨日バイト初日だったがやはり自分のプライドの高さ?には呆れる。プライドの高さだけではない。失敗しないように行動をしているが、実際は多少なりとも叱られることもある。別にそこで叱られたからといってそこまで恥ずかしいわけではない。プライドというより自分より"上"の人がいる場所で怖気づいてしまう。自分が何を武器に相手と闘っているのか。一番考えられるのは大学である。恥じすべきことだと思うけど事実だ。おそらくあの職場に自分よりの"上"の人はいないのではないか。だから変に居心地がいいし、優越感のような物が常に付きまとっている。大学ではそうはいかない。でも見下しているわけでは決してない。誓って言うことができる。スタッフや事務の人まで本当に良い方達ばかりだと思う。向こうがどう思っているかは分からないが、本心として感謝している。このことからも自分が大学を"武器"にして闘っているのも、人を見下すためでなく自分の自信?や精神を安定させるためだと言える。その拠り所としているのが自分にとってはこれであるというだけ。自分が考えられる範囲では決して見下していないが、もしかしたら潜在的な、自分で認識できない所では、また違った見方をしているのかもしれない。自分の自信を形成する要素は様々である。培ってきた知識、経験、外見、ステータス(年収、学歴等)、その内の自分の中に占める要素としてステータス(と言っても学歴だけだが)が少し大きすぎるような気がする。経験も多少あるかもしれないが外見には自信はないし知識も特に思わない。自分の勝手な理想的な人というのは、この中で経験が多く占めているような気がするのだ。

ただ、経験というのはとても幅広いため注意が必要だと思う。例えば、 年収や学歴と言った数字、字面はただのステータスだが、それを得るまでに費やした時間、苦労、努力は経験に分類されるからだ。自分が拠り所としているのが果たしてどちらなのか。しっかりと考えなければならない。合格するまでの労力は少しくらいは自信にしていいかもしれない。褒美としてもらった合格は付属品にすぎない。と言いたいが、仮に合格していなかったらそれまでの努力に対して自信を持つことができただろうか。努力の証として得られるのがステータスなら、そのステータスを得られなかった場合は同時に積み上げられてきた努力も消えてしまうかもしれない。経験は消えないが、自分の自信を形作る一つの要素としては機能しないかもしれない。これが正しければ自分のステータスを自信の拠り所にするのも必然であると言える。自信を形成する上で経験が最も強い効力を持っているなら、その経験の集大成として表れるのがステータスだからである。

まだ受験をしていた頃は自分は受からせてもらえないのではないかと思っていた。当時は立命だったが、立命に受かれば自分の自信に対してとてつもない影響を与えることを知っていたから。大げさに表現すればそこに受かれば人生が変わる、自分の中で大きな変化が起こる。こんなことを信じていた。つまり何をする上でも歴然として生きやすくなる。日々の生活全てが楽になる。そして今、実際にかなり楽だ。少なくとも中卒で立命に受からなかったケースと比較すれば。だから神様?は自分にそんな楽なことはさせないだろうと勝手に思っていた。中卒で病弱な人間として人生を歩み、もっと大変な経験をしろと、そんな甘くないぞと。でも現実にはその楽な方を与えて頂いた。こいつはこれがなかったら自暴自棄になるだろうから、これぐらいは与えてやる、ということにしてくれたのかもしれない。妄想に過ぎないけどそこには感謝しなければいけない。

明確に自信の拠り所とするものがないのに、確固たる自信を持っている人は本当に凄い人なんだ。その点自分は弱いし脆い。そういった人は尊敬に値する。サガは典型的な例だと思う。この職場にもこんな人が沢山いる気がする。見習うことが多い。関係ないが髪型の影響であるのかもしれないが、年齢より老けて見られていたぽい。自分でも動きや雰囲気が昔より大人ぽくなったのではないかと思っている。

夜から朝に変わる いつもの時間に 世界はふと考えこんで 朝日が出遅れた なぜ悲しいニュースばかりTVは言い続ける なぜ悲しい嘘ばかり 俺には聞こえる 何が起こっているのか 誰にも分からない いい事が起こるように ただ願うだけさ 眠れない夜ならば 夜通し踊ろう ひとつだけ多すぎる朝 後ろをついてくる

 

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