せっかく高度な人格形成が可能な状況に置かれてるのだから、それを実行しない手はない。
いわゆるほとんどの人が経験してきたようなことや、イベントや祭りなどのエンターテインメントに参加しないことは、参加しなければ、自分の記憶に刻まれることがないだけで、自分の中に存在しないのと一緒なので、特にマイナスになるということはないが、イベント事に限らず、色々なものに参加すればそれなりの体験が刻まれる。
副交感神経の拡張で就寝時のかゆみが増すので、就寝前や日中の間に、交感神経を膨張させすぎないようにすることが大事。
つまり過度な緊張をしないということだが、その緊張とは何も、会議での発表会やテストを受ける、大都会の人混みを歩くなどに限った話ではなく、どこにいようとも、いつでも掻ける状態のマインドを持つことなのかもしれない。
なら常に副交感神経、または交感神経のみ使えばいいじゃないか、という声もあると思うが、人間の構造上それは不可能。
肌の悪化というのは、とても皮肉というかタチの悪い症状と言うか、なんとも始末が悪く厄介なものだと思う。
食事を気にせず欲望のままに口にしても、特に命に関わるわけではなく、またステロイド剤を永年に多量に使い続けたところで死にはしない。
更にはそれをし続けたとこで人間が最も嫌うものの一つ、「痛み」や「恐怖」にも全く関わらない。
これもまた厄介なもので、悪化の原因の一つとも言われる悪化している患部への更なる刺激は、時によって麻薬や射精以上の強烈な快感をもたらし、好みの食物を思うがまま好きな量を食べることも3大欲求の一つである食欲と満腹中枢を十二分に刺激し本能的に快楽を得ることができる。
肌の状態悪化は人間の本質が魂にあると仮定した場合、全く気弱になる必要のないことであり、当人が気に留めない場合もネガティブ要素にはなり得ない。
しかし大半の人々は外見で9割を判断し、また優劣を付けることを好む。
自分の中でのみ生きているのであれば、ネガティブに捉える必要もなく気に留めず過ごしていけるのだが、現実の生活ではそうはいかず1人以外の不特定多数の他人の観点で自分の価値、人格、優劣を決められ、また、他人の評価で「自分」という紛れもない「人間」が形成される。
残念ながらそこからは逃げられもしない。
肌だけに限らず、視覚で認知できるものは「自分」にとっては大した意味をなさず、視覚ばかりに囚われている方がよっぽど愚かだと思わざるおえないのだが、どうしたものかこの人間社会では、その愚かな行為が浸透しておりまた「自分」自身もその行為を受け入れ営んでいる現実がある。
目に見えるものより見えないものが大事、とはなんなのか。
重度の肌の病を抱える者にとって、セックスは多大な犠牲を払わなければならない。
つまり支払うコストに比べ見返りが少なすぎる。
セックスで得られるもの、何てったって一瞬の快感に限る。
また付け加えるならば相手との愛情を深めることができるとでも書いておこう。
だが快感は知っての通り数秒であり、心から尊敬できるパートナー以外には愛情なんか存在しない。
問題はこの一瞬の快楽と愛情を得るために支払わなければならない犠牲が割りに合わなさすぎるという点だ。
ここでは重度の肌の病を抱えていない者を「一般人」として扱う。
まず大前提として、大半の一般人から見た重症患者の肌は気持ち悪い以外の言葉で表しようがない。
この時点で既に証明されているのが分かる。
患者は相手に対し嫌がらせをしたわけでもなく、酷な言葉を発したわけではなく、虐めたわけでもない、ただただありのままの姿を見せたに過ぎない。
にも関わらず気持ち悪がられ、嫌われ、後ろめたさを背負わなければならない。
重症患者は衣服というマストなガードを脱ぐわけにはいかず、その中身を見ることを許されるのは自分自身のみなのだ。
全身に白い粉、要は乾燥で今にも剥がれ落ちそうな皮膚の残骸が張り付いており、所々に引き裂かれたようなあかぎれがあり、生まれたての赤ん坊の頬のような赤みに全身が染められている。
もしこの人間を、なんなく受け入れ行為も全く厭わない、心から愛せると思える人間が存在しうるのならば、少しばかの希望は残るだろう。
服を着て行為をすればいい、光を消し暗闇ですればいい、金を払い風俗にでも行けばいい、沢山の意見があるかもしれないが、答えは全てが無理だ。
服を着る?暗闇にする?
それに肌の病がもたらす影響は視覚のみではない。
触感、つまり手で触れた時の感触だ。
暗闇にしたところで、工作に使うヤスリのような表面をした肌は何も変わらない。
風俗に行く?いくら相手が性交渉で飯を食っているプロとは言え人間は人間だ。
感情の塊である人間に金を与えたところでその感情が収まるはずがない。
金銭関係を持たない相手と同じ反応をするだろう。
こうして存在自体を煙たがられ酷く落胆する者、そもそも行為に挑戦する気を持たない、興味がない者も出てくるのだ。
私もその一片を担っており、少しばかの共有を望んでいたのだが、どういうわけか執筆中にだんだんと自分が馬鹿らしく思えてきた。
大半の人間がいとも簡単にする行為に対し、あれこれくだらない思考を繰り返し、態とらしく無駄に敵対視している自分に嫌気がさしたのかもしれない。
人を見て一つ気に入らない点があるだけでイライラするのはとても幸福とは言えないね。
髪が長いのが嫌いだからと言って、髪が長い人を見て自分の感情を嫌悪感で満たすのは賢くないよね。
自分で自分の首を絞めるとは正にこのことだろう。
自分がヴィーガン主義で肉食を嫌ってるとするでしょ、でも肉好きの友人のことは嫌いにならないよね。
好悪、主義、哲学、趣向、全部自分のもってるものに反してる友人がいても友人は友人でしょ。
まあ1歩譲って彼とは相性が良くないとしよう。
でもイライラして自分で自分を殺したりはしない。
あまりイイ、ダメ、ということは言わないが、周りの環境、人、に自分の感情を攻撃されていると誤解するのはダメだよね。
さっさと事を終わらせて、心を平常にしないと。
こんなことにイラついてる人はほっとこう。
「一瞬の苛立ち」の感情を無視するのは良くない。
当然引きずるのはもってのほか。
感情なんか一瞬あればいいんだ。
感情は引きずらない、これが僕のポリシー。
上手いこと言った、上手いこと言ったあ!
やることは一つだけ、勉強です。
憎しみ、怒り、嫉妬、不安、羨望、強欲、全ていらない、捨てないと。心が火事になる。
ミスチルを聴き、歌詞を念入りに逃さないように聴き入る、この気持ちはなんだ?
今の気持ちは将来への期待しかないんだ。
今と言っても本当に今だけで、起床して10分だ。
その先に起こることにしか興味がない。
ミスチルを聴いて、将来への期待を飛行船のように膨らませ、悦に浸る、いつヒンデンブルク号のようになるか分からない。
飛行に成功するかは着陸するまでは分からない。
ちなみに悦に浸るは悦に入るの誤用らしい。
でもこの気持ちが清々しい。何故だか。
なんで清々しいんだ。