たかのぶろぐ

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

草稿.10


運命とはどこまで影響を及ぼすのか?入不二の運命論を読んだが理解するのに苦労した。そもそも入不二は哲学者だからキリスト教決定論については述べていない。入不二は決定論には物語的運命論解釈的運命論、論理的運命論があると言う。入不二は後者を述べている。論理的運命論では現在過去未来時間の関係について考察している。生まれながらにしてどうのこうのといった話ではない。
物理的法則の観点から運命論を語ると現時点では否定されるらしい。ニュートン力学では未来の出来事は全てそれ以前の出来事で決まるということらしい。ラプラスの悪魔量子論(力学)が台頭してからはニュートン力学は否定され、未来は予想できないということになったらしい。不確定性原理シュレディンガーの猫はその一方で量子論の解釈に異議を唱えているらしい。よく分からないがとりあえず物理学では未来が決まっていることに関しては否定的である。

自分達が語る運命論はどちらかと言うとキリスト教的な話であり、神御佛があらゆる物事を決めているといった解釈。自分は神という確固たる存在がいるようには感じられないが、何かが何かをしていただいているという感覚がある。して頂いているという感覚もあるしなるようになっている、なるようにならさせてもらっているといった感じもする。この足りない人生経験では語ることができないが、何か上の存在があるということを感じるようになった。何かしら見られているといった感覚は数年前からあったが、より考える時間や思い入れが強くなったと感じる。T寺的には御佛という存在は全てを知っており、あらゆることを決めたり与えてもらっているということなんだろう。本の中で病気の方の話があり、正しいこと?必要とする経験をさせてもらえば正しい治療法の病院へ巡り会うことができる、という例があった。そこを読んだ時ばんたねを真っ先に思い出した。必要な経験をさせてもらい、自ずと良い病院へ誘って頂いたような気がする。大学が始まる2月まで治らずその2ヶ月で信じられないスピードで治っていった。そして今がある。運命的な解釈をしなければ単に治らない治療法をギリギリまでやり、見切りをつけて大学病院へ行ったという事実があるだけである。どのような経緯でばんたねに行ったかは忘れた。民間から科学的な療法は移ったのだからある意味治るのは当然でもある。でも自分はそれだけでは片付けられない。セレスを辞めたのは単に1月まで行っても治らなかった(自分の責任も充分にある)、先生から激しい罵倒を受けた、受験直前だったので勉強する必要があった、ということになる。特に運命的な何かがあったとは思えない。そして民間の両方はもう無理と経験と時間的な側面から判断した。ばんたねへ行ったのは確か矢上先生という世間でも知られている名医がいたからというだけ。ユーコ姉ちゃんは知っていた気もするが。診察の初日からステロイドを塗れという指示があり、ためらいもあった気がするがその場で看護師に塗ってもらい帰りには薬を処方してもらい帰ってきたと思う。大学に行くという話をしたら入院を強く勧められその場で了承した。3週間前くらいに退院してそのまま東京へ行くことができた。これを考えると単に親や自分の先生の判断に従って動いただけだ。

ただ実際にはこれも決められた道であったと言える。そう考えると人の思考判断には何か上の存在が関わっており導いているということになる。それ以上は何も分からないが、取り敢えずばんたねにお世話になり良い状態を保っていることはありがたいことだ。

運命はどこまで影響を及ぼすか?これが不思議だった。例として、今ばんたねに行ったおかげで正しいであろう治療法に従い良い状態がある。ばんたねを知ったのは運命かもしれない。ただ、今この状態があるのは運命でもないと言える、厳密には運命は入り口を開いてくれたがそれ以後のことは本人の行動で決まると言える。

仮にばんだねへ行って一時的に回復しても毎日のスキンケアを怠れば絶対に維持できない。今の状態にももちろんなっていない。ここが決められている決められていないの線引きなのではないか?と思う。一応朝夕特別な事情がない限りめんどくさくてもケアをやっている。ならこの行動が御佛のような何かによってされているものなのか?そこはたぶん違うと思う。悪い物を食欲に負けて爆食いする。これは自制心があるから保つことができている。何かが関わっているとは思えない。

似たようなことで自分の経験の中で言えるのは受験である。第一志望の大学に模試の結果からも有利であったのに落ち、ほとんど受からないと思っていたこの大学に受かっている。ここに受かったことで親せきとの距離も縮まり、月1で親に会うことも可能になった。これは決まっていたことだと思う。しかし勉強をしなかったらもちろん受かっていなかった。地元の私大レベルの力しかなかったらいくら運命、決められているとは言え法政には受かっていない、運命ありきの話でも法政に受かるか受からない程度の学力はないと合格はしない。テスト本番で神の力で難問を全て解くことができたなんて話なら別だが。最初のきっかけや最後の結果は運命的な何かが関わっていると言えるが、きっかけ以後の行動、結果に至るまでの努力には自分の力のみとは言いすぎかもしれないが、ほとんどが自分の意思によって決まると思う。

これを書いててももう分からなくなってきた。複雑すぎて考える程頭が沸騰する。元を言えば、こうやって下宿と私立の学費を払ってもらえるような家庭に生まれたこと自体運命であり、親がある程度もらっているのにも親の努力があり、T寺に縁をもらったのも運命であり決められたことであったのかもしれない。いわゆる親ガチャである。

何もかもが全て運命だとは言えないと思う。キリストの決定説では、全てが決められているのなら努力の意味が無くなると言った全体堕落?と言われる説?考え?があると書いてあった気がする。キリストの決定はそもそも死んだ後に成る階級?的なものが決められているという話だった気がするが… 今取り上げられている 「親がチャ」も以ている。ニュースや記事でも話題にされているらしいが下らなさすぎて一度も見ていない。単に上流下級の家庭に生まれた時点で差がありすぎるという話だろう。これに関しては肯定も否定もできない。自分は大半の人とは違う道だったと自負しているが、かなり恵まれていると思っているからだ。お金がないなら奨学金を借りろ、それが無理なら国立大へ行くか特待生として免除されるまで 勉強しろ。でも勉強自体恵まれた家庭との教育格差はある。 かと言って努力を放棄し親のせいにするのは間違っていると強く思う。自分は努力もしていないしそんなことを語る立場なのか?