たかのぶろぐ

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

供養と私

 

ある人の話

長男が体調を下し供養を始める。

正しい供養をし徐々に子供も元気なる。

ただしその家庭は供養をしに行くお寺まで3時間以上かかり、母親も忙しいため通うのが苦しい。

そこで父親が「そろそろ供養の回数を減らしたらどうか」と母親に言う。

すると子供は人格が変わったかのような、別人のような声で「ちゃんと供養しろよ」と言う。

 

その後三男が話すことが困難になる。

声を発することができない。

兄弟喧嘩の最中に突然、言葉を発せなくなったらしい。

現在も彼は話すことができない。

 

お寺で母親は「彼が稼いでくれて助かりますよ」と言う。

住職はそれに対して叱る。

「働いて稼ぐことより体の回復、会話ができるようになることの方が大事でしょ」と。

 

原因は明らかではないが、おそらく父親が母親に対して放った言葉が理由らしい。

子供の体調が崩れたのは先祖の供養をしっかりとしなさいという暗示。

伝えるべきことを子供を通し示した、

両親はその本当の理由に気づかず子供を治すことばかりに目が行ってしまった。

これは当然である。

子供の体調が回復することも大事な目的の一つだから。

ただし、見落としてはいけない。

子供の体調が崩れた本当の原因は「先祖供養」を怠っていたから。

「先祖供養」の大切さに気づいて欲しいがために、やむを得ず子供の体調を崩した。

つまり、子供の体調を治すのを目標にするのは大前提ながら本当の目的は「先祖供養の大切」さを知ること。

が、この両親は目の前で起こる「子供の変化」にばかりに目がいってしまい、体調を崩した原因、体調が回復するまでに実行したことを見落としてしまった。

先祖が気づいて欲しかったことにこの両親は気づくことができなかった。

 

 

これは何も供養の話に限ったことではない。

肌が悪化し、外出することすら困難になった。

挙句、高校を中退し4年間引きこもり生活を送ることになる。

その肌の悪化を治す唯一の方法は「食事制限」だった。

本来食事と言うものは、プロのアスリートや大病を患い入院中の方じゃない限り、基本的には好きなものや美味しいと思うものを中心に食べる。

しかし自分はできない。

なぜなら治す方法は「食事制限」しかないからだ。

 

本来はステロイド外用剤を使用し、肌の悪化に連れ徐々に強い効果を持つ外用剤へと変えていく。

ただ僕は15歳にしてすでに最も強い効果を持つステロイド剤を使用してたのだ。

それも1年以上使用してたが一向に治らない。

どうするか、一番強い薬を使っても治るどころか悪化するのだから、何か大きな変化が必要だった。

そこで今まで使用してたものを全てストップした。

残った治療法が「食事制限」だった。

15歳〜18歳の食べ盛り。

人生で一番体がエネルギーを欲してる時期。

この時は辛かった。

ただそれを実行する理由が自分にはあったのだろう。

この「理由」は自分が意識して明確に感じているものではない。

神様化何者かが僕に必要な事だと判断したから勝手に課せてきたのだろう。

それに対し断ることはできない。

ならこの「食事制限」という機会を通し色々学んでみよう。

 

そこでさっきの家庭の話に戻る。

この両親は「子供が体調を崩した原因」には目を向けず、いや、目を向けてはいたが心の中では分かっていなかったのだろう「子供が治っていく目に見える変化」にだけ目を奪われてしまった。

つまり、どこかの誰かさんが気づいて欲しかったことに気づくことができなった。

 

自分にも言える。

目の前に訪れる「肌の変化」にだけ注目しててはいけないのだと。

肌が良化することは当然大事で喜ばしい、なんならそれが食事制限の目的と言うのが当たり前だろう。

それに気づくまでは。

肌を治すことを目的としてその変化にしか目がいかない間は、いつまで経っても本当のことに気づくことはない。

おそらく自分には「自分の心、欲望をコントロールする力」が不足していたのだろう。

「食事制限」を通して「心、欲望のコントロール」の大切さに気づいて欲しかったのかもしれない。

もちろん全く違う可能もある。

美味しい物が食られることはどんなに幸せか、または生物に感謝しろ、ということを知らせるためだったかもしれない。

これは誰にも分からない。

でも今自分が感じているのは散々挙げている通り間違いなく「心のコントロール」である。

「感情に自分を支配されてはいけない、感情はあなたの召使いであるべきだ」という言葉がある。

まさにことのことだろうと僕は思う。

今回気づかされる上で必要だったことがたまたま「食事制限」であっただけで、その他のことについても同様だろう。

 

僕は恵まれていると思っていいのか、悪いのか、未だにはっきりとしないが少しだけ運が良かったと感じる。

それは「食事制限」やめれば、その結果が目に見える変化として表面に出てくる。

さっきの話では「先祖供養」を中止しても子供の体調は良くなっていく。

中止しようとして口に出したことが原因だった。

つまり、子供の体調がみるみる良くなって言っても先祖供養を辞めてはいけないということ。

これはとても大変だと思う。

なぜなら人間は五感で感じることが9割、なかでも視覚という器官はその大半を占める。

その人間が感じる大半のことを占める視覚で分かる現象が常に良い方向へ変化しているのである。

その現状を受け入れながら、目に見える変化が起こらない「先祖供養」をし続けるというのは容易いことではない。

もちろん、それが必要だから起こったことであり、それに対して答えるのが当然である。

自分の話に戻そう。

先程述べた通り、目に見えないことを信じながらやらなければならない「先祖供養」と違い、しなければなりない「食事制限」をやめると目に見える変化で見せてくれるのだ。

少しだけ優しくしてくれたのか、そんなことを言ったらこれから大変なことが起こるかもしれないが、分かりやすく肌の変化として見せてくれるのはとてもありがたいと心から思う。

 

「心のコントロール」から離れられなくなった今は、一生「心のコントロール」をし続けることになるだろう。

あまり一生だとか永遠という類の言葉は使いたくないが、これについては間違っていないと思う。

本当に「心のコントロール」に気づくことが目的だったのか正しいことは分からないが、正しいことが分からないのもまた人間である。

現時点で感じることはこれだけということ。

これから先、また違う変化が訪れ自分の感情も変化し気づくことも変わるかもしれない。 

そうなったらその時でまた極々小さな一歩を踏むことに成功したのかもしれない。

あまり深く考えずその時その時で柔軟に行こう。

直感で感じたことや、何か違うなと思った時はより慎重に深く考えることが必要かもしれないが。

次の「その日」が来るまで、今できること、やるべきことを精一杯頑張るだけだ。

恐れること、心配なことは何もない。

だって必要なことは「自分に起こる変化」として知らせてくれるのだから。