たかのぶろぐ

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。

にじゅっさいのげんてん

 

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ツイキャスで自殺配信をした16歳や15歳のアイドルの首吊り自殺、友達の兄が20歳で他界したり若い人が亡くなった情報を最近よく耳にする。3日前にオウム真理教の元教祖麻原彰晃の死刑が執行さた。6人同時に行われ、他の6人の死刑囚も間もなく執行されるそう。4日前にはEXILEの弟分のグループの22歳のメンバーも癌で死んだ。死刑に賛成か反対かなんて話は置いといて、今日は自殺についてちょっとだけ書きたい。

親や祖父の仕事柄「死」が昔から身近にある環境にいる。自分は長生きするよりそこそこの年齢で死ねたらいいと思う。自殺ではなく何かに熱中したり何かに捧げてその弊害によって死ぬ方がいいと思う。

例えば学生運動家で20歳で自殺した高野悦子や18歳で自殺したネットアイドル南条あや、は美しい。と言うとおかしいけどなんか良い。もちろん自殺がいいとは思わないしいくら人間に選ぶ権利があっても生かされる時間は生きなければいけないと思う。高野悦子の「二十歳の原点」や南条あやの「卒業式まで死にません」は刺激的な本だった。

これは高野悦子の準公式ホームページ。結構詳しく書いてある。作ったのが古いのか、ちょっと見にくいけど。

https://www.takanoetsuko.com/

南条が自殺する前の1998年頃のブログも残ってる。

http://web.archive.org/web/20030805035852/nanjouaya.com/hogoshitsu/memory/index.html

 

有名人だとキュリー夫人の死因は有名かな。放射線研究の第一人者で、放射線の浴びすぎによって66歳で亡くなった。これは研究に人生を捧げてその弊害を受けて亡くなった感じ。

長生きできれば出来るだけ良いと前の記事で書いたけど、最近はなぜか全く思わなくなった。「若くして死ぬ」ことが美しくカッコいいと思う。この辺りに厨二病が入ってるのは数年後に分かるだろう。

僕は尾崎豊を聞くんだけどこの人も短命で以前より神格化されてる人物の1人。いやもちろん凄いし、10代の教祖と呼ばれて18歳で誰もが知っているような大ヒット出してとんでもないスターだったと思う。「僕が僕であるために」とか天才すぎる。そんな教祖が26歳で死んじゃうとか記憶に残らない訳がない。さらに若いときに死ぬと、その若い頃の美しい姿のまま記憶に刻まれるじゃん。その記憶が永遠と残されるわけだからいつまでたっても綺麗。だからこそ余計に神のように扱われる気がする。海外だとマイケル・ジャクソンも。27クラブの人達はみんなそう。

二十歳の原点」がベストセラーになった高野悦子もそう。他にも本を出してるんだけどそれも10万部売れたらしい。ふつうに学生運動してそのまま生き残って長生きしてたら、恐らくこんなに売れてないし国民も興味を持っていないと思う。

例えば北野武は長い間TV出てるけど、今パっと浮かぶのは現在の姿じゃない?自分は若い頃のたけしは知らないけどさ。ダウンタウンの松本でも20代の頃の顔より金髪の松本が出てくると思う。大体の人はよぼよぼになった直近の姿が強く記憶に残るから。

まあ若くして死ぬほうがカッコいいって言ったのは半分冗談だけど、さっきも書いた通り自殺で若くして死ぬのはそんなにカッコよくない。尾崎は僕は僕であるために勝ち続けなきゃならない、って言ってたじゃん。それより何かに熱中して体を壊して結果的に短命になってしまったというケースの方がいい。

早くに死ぬ方法は自殺か自分で自分を苦しめる(ある意味快感)方法があると思う。自分で自分を苦しめるは例えば、体に悪いと知っていても敢えてそれをやる。体に悪いけど好きだから食べまくって病気になって死ぬとか。他には好きなこと、やりたいことがあって睡眠を異常に削るなど。自分を苦しめてるのは分かってるけど、それが快感になってしまうこと。早く死にたいけど自殺はしたくないなら間違いなく後者を選ぶべき。M気質。

でもやっぱり自殺ってアレじゃない?なんかアレな感じする。もちろんさ人それぞれ耐えきれない悩みとか苦しみがあったんだと思う。特に有名人なんかになったりしたら自分たちからは全く想像のつかない厳しさもあると思う。

もう散々使い古された言葉だけど、「生きたくても生きられない人がいる」って言うじゃん。その人達は自分では生きる、死ぬを選択できないけど、少なくとも今、死に関わるなにかを持っていない人は自分の意思で選べるじゃん。そこであえて死を選ぶって失礼じゃない?いや失礼だと思う。

もちろん「生きられない人」は何も思ってないだろうし、そもそも全く違う人間で自分にとっては無関係だし、自殺するようなマインドの時はそんなこと考える余裕も無いと思うけど。でも生きていられる状況にあるのは何かしら理由があるからでしょ。

その人達への感情を抜きにしても。なんで生きてるんだとかたまーに思うよね。生きてなくてもいいのになんでこの世界にいるんだろうとか。今まで数千億人が生まれて数百億人が死んで、なぜ今自分はこの時代に生きてんのかなあとかね。まあ理由なんて分かるわけがないんだけど。

だから最近の社会の超合理主義とか嫌い。よく耳にする老人への社会保障費が高すぎて負担が大きすぎる、日本は先進国では労働生産性が著しく低いとか。そういうのは本当によく分かるんだけど、生産性生産性、合理化合理化、こんなことばっか言って生きてるってなんか息苦しいじゃん。もっと生産性とか合理化とかいちいち考えず生きたい。かくいう僕も手間なことは嫌だから、支払いはデビットかSUICA、銀行も通帳なしのネットバンキング、ちょっとした物でもAmazonで頼んだり映画とか高いし嫌だからAmazonPrimeでしか見ない、とか解釈次第では合理主義者になってしまうのだけど。これは合理主義ではないか?

まあ自殺が社会への問題提起になるとか、自殺は悪いことじゃないとか、自死は人間に与えられた権利だとか、いろいろな声があるけどとりあえず生きてればいいじゃん、て思ってこんなことを書いていられるのは親の金で飯食って何も考えていないニートの今だけかもしれないね。

二十歳の原点、明石の田園、マサイの検便、嵐の宣言、明かりの電源、花火の点検、じゃがいも天然、本来の読み方はにじゅっさいのげんてん。